大変お待たせしました!
「もふりんと楽しむ聖書探検」第1回の始まりです。
記念すべき第1回は・・・「幸福へ至る道」(前編)
「幸福へ至る道」というタイトルで、前編・中編・後編にわたってお届けしていきます。
あなたは、どのような時に「幸せ」を感じるでしょうか?
- 美味しい食事を口にする時
- 家族と一緒に過ごす時
- ひとりでゆったりとくつろぐ時
- 趣味に没頭する時、などなど・・・
幸せを感じさせるさまざまな時が思い起こされることと思います。
さて、世界のロングセラーといわれている聖書では、本当の幸福はどこにあると言っているでしょうか?
長久手キリスト教会の牧師である石川牧師をナビゲーターとして、我らがマスコットである「もふりん」と一緒に、あなたも聖書探検を楽しんでみませんか?
もしかしたら、あなたの人生を大きく変える宝物に出逢えるかもしれません!?
石川牧師、わたしは、長久手キリスト教会に来たばかりなので、聖書のことがよくわからないことも多くて・・・。
いろいろとお聞きしたいです!
どうぞよろしくお願いします!
石川 もふりんと聖書を学ぶことができることを私もうれしく思います。こちらこそ、どうぞよろしくお願いします。
今日は、どんなことを話してくださるんですか?
石川 そうですね。今日は、新約聖書の中で、「ヨハネの福音書」というところから、
聖書が教える「幸福へ至る道」
を一緒に考えてみたいと思うんですね。
「幸福へ至る道」ですか?
いきなりむずかしそうなお話になりそうですが、わたしでも大丈夫でしょうか・・・?
石川 ええ、もふりんにもわかるように、ゆっくりと丁寧に進めていきますから大丈夫ですよ(笑)。もし、わからなくなったら、遠慮なく聞いてくださいね。
わぁ、どうもありがとうございます。
石川牧師がそばにいてくださるので、安心して聖書を学べそうです。
石川 では、早速、聖書を開いてみましょうか。
一緒に読んでみましょう。
3:1 パリサイ人のひとりで、その名をニコデモというユダヤ人の指導者があった。
3:2 この人が夜イエスのもとにきて言った、「先生、わたしたちはあなたが神からこられた教師であることを知っています。神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるようなしるしは、だれにもできはしません」。
3:3 イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。
3:4 ニコデモは言った、「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」。
3:5 イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。
3:6 肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。
3:7 あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。
3:8 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである」。
3:16 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。
新約聖書(口語訳) ヨハネの福音書 3書1節~8節、16節
石川 さて、もふりんに質問ですが、もふりんが「幸せだなぁ」と感じるときって、どんなときですか?
えっと・・・やっぱり、もふもふしたものに包まれているときでしょうか・・・?
石川 なるほど、名前の通り、もふりんは、もふもふしたものが好きなんですね(笑)。
私は、自分の歩みを振り返ると、幸せに感じるものが、子どものときから大人になるまで、その時々により変わっていたように思います。
幼稚園や小学校のときは、好きなおもちゃが手に入ればうれしかったですね。
中学生の時は、スポーツバッグを手に入れたときが幸せでした。
高校生の時は、大学に入学するために一生懸命勉強して、大学に合格したときに幸せを感じました。
社会人になると、結婚を考え始めて、結婚相手が与えられれば幸せだなぁと思った時期もあります。
50歳を過ぎた今、子どものときに欲しかったおもちゃを手に入れても、うれしくもないし、幸せにもなれません。
人生のその時々によって、自分が幸せを感じるものって変わっていくと思いませんか?
そうですよね・・・。わたしも、しばらくたつと、幸せに感じるものが変わっているのかも・・・
石川 人は、自分の外にあるものに幸せを求めがちです。
でも、そこで得た幸せが、ずっといつまでも続くことはないといえるのではないでしょうか。
たとえ、一時的に「幸せだなぁ」と感じたとしても、その幸せは時間とともに消え去ってしまいます。
なぜなら、自分自身が時とともに変わっていってしまい、それまで幸せに感じていたものに、いずれ幸せを感じなくなる時が来てしまうからです。
ですから、たとえ、自分自身が変わったとしても、絶対に変わらない確かなものに、幸せの土台を築かなければ、本当の幸せは保証されないということになります。
でも、果たして、そのようなものがあるのでしょうか?
どんなに多くのものを持っても人は幸福になれない
石川牧師、わたし、ひらめきました!
自分が変わったとしても、その時々で欲しいものを好きなだけ手に入れられれば幸せなんじゃないでしょうか?
石川 なるほど、もふりんは、そう思うんですね。
では、聖書を見てみましょうか。
先ほど一緒に読んだ、ヨハネの福音書3章1節~2節を見ると、ニコデモという人が出てきます。
3:1 パリサイ人のひとりで、その名をニコデモというユダヤ人の指導者があった。
3:2 この人が夜イエスのもとにきて言った、「先生、わたしたちはあなたが神からこられた教師であることを知っています。神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるようなしるしは、だれにもできはしません」。
ニコデモは、「パリサイ人でユダヤ人の指導者」と書いてありますよね。
簡単に言えば、イエスさまがいた頃のユダヤ人の宗教の先生・・・年を重ねたお偉いさんだったわけです。
ですから、ニコデモは、たくさんのものを持っていました。
知識・権力・社会的地位・名声などなど・・・お金もたくさん持っていたかもしれません。
ということは、ニコデモは幸せだったんじゃ・・・
石川 でも、ニコデモは、2節を見ると、夜、イエスさまのところにやってきたみたいですね。
これは、何を意味するでしょうか?
そう、人目を避けて、お忍びでイエスさまのところにやってきたということなんです。
「こんなことをイエスさまに聞く自分を仲間に見られるのは恥ずかしい」といった思いが伝わってきます。
確かにニコデモは、年を重ねて、知識・権力・名声など、人が欲しがるものをたくさん得てきました。
でも、本当に満ち足りた人生を送ってはいなかったようなんですね。
年を重ねた後、その先に待っているのは「死」です。
ニコデモは、自分が死んだ後どうなるか、その確信を、人生の晩年になっても、どうしても得ることができなかったようなんです。
なるほど。いくらほしいものを手に入れたとしても、いつかは死んでしまうんですよね・・・。
その後、どうなるかを考えると、とても不安になります。
石川 ええ、どんなに多くのものを持っていても、ニコデモは、やがて来る死を目前にして、自分が死後にどうなっていくのか、強い確信も、ゆるぎない平安も持つことができなかったことが伺えます。
ニコデモは、ユダヤ人の宗教の先生であったにもかかわらず、心はいまだ闇に支配されていました。
そして、その問題を解決するために、夜、人目を忍んでイエスさまのところにやってきたというわけです。
ニコデモは、たくさんのものを持っていても決して幸せじゃなかったんですね・・・
次回予告
お忍びでイエスさまのもとを訪ねたニコデモ。
ニコデモは、知識・権力・名声など、人がうらやむものを得ていたが、決して幸せではなかった。
ニコデモの幸福を妨げている問題とは何なのか・・・
そして、イエスさまに出会ったニコデモは、果たして、幸福への神髄に迫ることができるのか・・・
次回の「幸福へ至る道」(中編)をぜひご期待ください!
いかがだったでしょうか?
実は、この「もふりんと楽しむ聖書探検」は、毎週日曜日の主日礼拝で語られる石川牧師の説教の内容をもとに構成しています。
あなたも、日曜日に長久手キリスト教会に来ることによって、このような豊かな聖書のお話を楽しむことができます。
ぜひ、長久手キリスト教会で、私たちと一緒に聖書から恵みを受けてみませんか?
あなたのご来訪を心よりお待ちしています!
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