【もふりんと楽しむ聖書探検】 幸福へ至る道

「もふりんと楽しむ聖書探検」の始まりです。
あなたは、どのような時に「幸せ」を感じるでしょうか?
- 美味しい食事を口にする時
- 家族と一緒に過ごす時
- 趣味に没頭する時、などなど・・・
幸せを感じさせるさまざまな時が思い起こされることと思います。
さて、聖書では、本当の幸福はどこにあると言っているでしょうか?
長久手キリスト教会の牧師である石川牧師をナビゲーターとして、我らがマスコットである「もふりん」と一緒に、あなたも聖書探検を楽しんでみませんか?


もしかしたら、あなたの人生を大きく変える宝物に出逢えるかもしれません!?
もふりん石川牧師、わたしは、長久手キリスト教会に来たばかりなので、聖書のことがよくわからないことも多くて・・・。いろいろとお聞きしたいです!
石川もふりんと聖書を学ぶことができることを私もうれしく思います。
もふりん今日は、どんなことを話してくださるんですか?
石川今日は、新約聖書の中で、「ヨハネの福音書」というところから、聖書が教える「幸福へ至る道」を考えてみたいと思うんですね。
もふりん「幸福へ至る道」ですか?いきなりむずかしそうなお話になりそうですが、わたしでも大丈夫でしょうか・・・?
石川ええ、ゆっくりと丁寧に進めていきますから大丈夫ですよ(笑)。
もふりんわぁ、どうもありがとうございます。石川牧師がそばにいてくださるので、安心して聖書を学べそうです。
石川では、早速、聖書を開いてみましょうか。一緒に読んでみましょう。
新約聖書(口語訳) ヨハネの福音書 3書1節~8節、16節
石川もふりんが「幸せだなぁ」と感じるときって、どんなときですか?
もふりんえっと、もふもふしたものに包まれているときでしょうか?
石川私は、自分の歩みを振り返ると、幸せに感じるものが、子どものときから大人になるまで、その時々により変わっていたように思います。
幼稚園や小学校のときは、好きなおもちゃが手に入ればうれしかったですね。
中学生の時は、スポーツバッグを手に入れたときが幸せでした。
高校生の時は、一生懸命勉強して、大学に合格したときに幸せを感じました。
社会人になると、結婚を考え始めて、恋人が与えられれば幸せだなと思った時期もあります。
50歳を過ぎた今、子どものときに欲しかったおもちゃを手に入れても、うれしくもないし、幸せにもなれません。人生のその時々によって、自分が幸せを感じるものって変わっていくと思いませんか?
もふりんそうですよね。わたしも、しばらくたつと、幸せに感じるものが変わっているのかも・・・
石川人は、自分の外にあるものに幸せを求めがちです。でも、そこで得た幸せが、ずっといつまでも続くことはないといえるのではないでしょうか。
たとえ、一時的に「幸せだなぁ」と感じたとしても、その幸せは時間とともに消え去ってしまいます。なぜなら、自分自身が時とともに変わっていってしまい、それまで幸せに感じていたものに、いずれ幸せを感じなくなる時が来てしまうからです。
ですから、たとえ、自分自身が変わったとしても、絶対に変わらない確かなものに、幸せの土台を築かなければ、本当の幸せは保証されないということになります。
でも、果たして、そのようなものがあるのでしょうか?
もふりん石川牧師、自分が変わったとしても、その時々で欲しいものを好きなだけ手に入れられれば幸せなんじゃないでしょうか?
石川なるほど、では、聖書を見てみましょう。ヨハネの福音書3章1節~2節を見ると、ニコデモという人が出てきます。
石川ニコデモは、「パリサイ人でユダヤ人の指導者」と書いてありますよね。簡単に言えば、イエスさまがいた頃のユダヤ人の宗教の先生・・・年を重ねたお偉いさんだったわけです。
ですから、ニコデモは、たくさんのものを持っていました。
知識・権力・社会的地位・名声などなど・・・お金もたくさん持っていたかもしれません。
もふりんということは、ニコデモは幸せだったんじゃ・・・
石川でも、ニコデモは、2節を見ると、夜、イエスさまのところにやってきたみたいです。
これは、何を意味するでしょうか?人目を避けて、お忍びでイエスさまのところにやってきたということなんです。
「こんなことをイエスさまに聞く自分を仲間に見られるのは恥ずかしい」といった思いが伝わってきます。
確かにニコデモは、年を重ねて、知識・権力・名声など、人が欲しがるものをたくさん得てきました。でも、本当に満ち足りた人生を送ってはいなかったようなんですね。
年を重ねた後、その先に待っているのは「死」です。
ニコデモは、自分が死んだ後どうなるか、その確信を、人生の晩年になっても、どうしても得ることができなかったようです。
もふりんなるほど。いくらほしいものを手に入れたとしても、いつかは死んでしまうんですよね。その後、どうなるかを考えると、とても不安になります。
石川ええ、どんなに多くのものを持っていても、ニコデモは、やがて来る死を目前にして、自分が死後にどうなっていくのか、強い確信も、ゆるぎない平安も持つことができなかったことが伺えます。
ニコデモはユダヤ人の宗教の先生であったにも関わらず、心はいまだ闇に支配されていました。
そして、その問題を解決するために、夜人目を忍んでイエスさまのところにやってきたのです。
ニコデモは、たくさんのものを持っていても決して幸せじゃなかったんですね・・・
もふりん訪ねてきたニコデモは、2節でイエスさまにあいさつしていますよ。
イエスさまは、どのように答えたのでしょうか・・・?
石川2節~3節を読むと、ニコデモが、「本当に満ち足りた人生を送っておらず、死後に対する不安がある」という自分の問題を打ち明ける前に、イエスさまはすでに、ニコデモがなぜ自分のもとを訪ねてきたのか、ご存じだったみたいですね。
もふりんそうみたいですよね。ニコデモが、自分の悩みをイエスさまに言う前に、イエスさまは、すでにニコデモの悩みを見透かして、先に答えを言っていますよね。
でも、「だれでも新しく生まれなければ、神の国=天国を見ることはできない」って、どういう意味でしょうか・・・
石川確かにちょっとわかりづらいかもしれませんね。実は、このひとことで、イエスさまは、2つの大切なことを言っているんですね。
その2つというのは、
- 「天国に入る確信」を得た者こそが真の幸福へ至る
- 天国に入るためには新しく生まれ変わる必要がある
ということです。
もふりんなるほど。ニコデモが聞きたいことに対して、イエスさまは、いきなり、ずばり、お答えになっていますね!
石川ええ、そうですよね。まずは、第1のポイントである、
- 「天国に入る確信」を得た者こそが真の幸福へ至る
ということについて考えてみましょうか。
これは、逆に言うなら、
- 死んだ後に天国に入ることが約束されていないなら、そこには魂の平安=真の幸福はない
と言っているのと同じです。
すでお話ししたように、ニコデモは、ユダヤ人の宗教の先生であって、地位、名声、権力など、人がうらやむものを数多く持っていたことと思われます。
でも、宗教の先生でありながら、「自分自身が天国に入れる」という確信がなかったんですね。
だから、魂の平安を得ることができず、悶々とした人生を送らざるをえなかった・・・
イエスさまは、ニコデモの心の奥底にある、この深い問題を見抜かれていたようです。
もふりん確かに、死んだ後にどうなってしまうのかがわからなければ、とても不安です。結局、死んで何も残らないなら、何のために生きていったらいいのでしょうか?
石川ええ、確かにそういう思いになりますよね。ニコデモは老年でしたから、その思いは一層強かったんでしょう。
- たとえ、この人生においてどんなに多くのものを得たとしても、それらすべてが死をもって終わってしまう・・・
- 後には何も残らない・・・
- 人の命はこの世とともに過ぎ去ってしまう・・・
これでは、私たちの短い人生においていつまでも平安をもって幸福に生きることはできません。
逆に、どんなことがあったとしても、「死んだ後には天国に入ることができる」という強い確信があった場合はどうでしょうか?
私たちの人生は、楽しいこともある一方で、ときに苦しく、つらいことも多く経験するかもしれませんが、もふりんはどうですか?
もふりんわたしも、時に苦しかったり、さびしくなることもあります。
誰かがそばにいてくれないかなぁと思うときがあります。
石川もふりんも大変なことがあるのですね。では、そのような中でも、毎日毎日が、天国という希望に向かって歩んでいるとしたらどうでしょうか。
それは、ひとことで言うなら、神さまと共に歩む人生です。
- いつどんなときでも、神さまがともにいてくださり、天国へと導いてくださっている人生・・・
- 苦しい時には助けが与えられ、悲しい時には慰めが与えられる人生・・・
- そして、死んだ後には、神さまが天国へと導いてくださる人生・・・
このような人生は、私たちに、何にも代えがたい魂の平安をもたらします。そして、それは、時とともに色あせることがありません。
子どものときでも、青年になっても、老齢のときでさえ、天国は変わりません。
いつ、どのようなことが起ころうとも、たとえ、耐え難い悲しみや苦しみに遭おうとも、常に、天国という希望を胸に抱きつつ、人生を歩むことができる・・・
実は、このような人生が、聖書が語る幸福なんですね。
死んだ後に天国に入るという確信が、真に満ち足りた幸福な人生をもたらすと聖書は語っているんですね。
もふりん毎日が天国へと続く階段みたいですね。すごくわくわくした毎日を過ごすことができるかも。新しく生まれ変わるにはどうすればいい?
石川牧師、天国に入れるという確かな望みを持って生きることが幸せであることはわかりました。でも、天国に向かって毎日を生きるって、どうやったらできるんですか?
石川それは、イエスさまがおっしゃった2つの大切なことのうち、第2のポイントが鍵となります。イエスさまは、
- 天国に入るためには、新しく生まれ変わる必要がある
とおっしゃいました。
もふりん新しく生まれ変わるって・・・もう一度、お母さんのおなかの中に入って生まれなおすことができるんですか?
石川もふりんはニコデモと同じことを考えたようですね。3節と4節をもう一度読んでみましょう。
石川実は、ここでいう「新しく」というのは、「上から」という意味合いを持つんです。
つまり、「上からの力をいただいて」、もっといえば、「神さまから力をいただいて生まれ変わる必要がある」ということを言っているんですね。
神さまから力をいただいて生まれ変わることが、天国に入るための秘訣である・・・と。
もふりん生まれ変わる力を神さまからもらえるっていうことでしょうか?
石川ええ、その通りです。もっといえば、神さまから力をいただく以外の方法では、人間は新しく生まれ変わることができません。
神さまから力をいただかない限りは、新しく生まれ変わって、天国に入ることができないと聖書は言っています。
私たち、生まれながらの人間は、
- 自分の力で自分を新しいものに変えようとする
- 自分で努力すれば天国に入れる
と思うことが多いではないでしょうか? たとえば、
- 毎日、まわりの人に、親切にするように心がける
- 努力を重ねて、良い成績をおさめ、人から認められるような仕事をする
- 自分の悪いところを改善し、善い行いを心がける
- ・・・などなど
これらは、決して悪いことではありませんが、天国に入るためには不十分であると聖書は言っているんです。
もふりんニコデモもたくさん勉強して、人がうらやむほどの立派な仕事をしていたんでしたっけ・・・
石川ええ、ニコデモもそうでした。
先にお話ししたように、ニコデモは、ユダヤ人の宗教の先生でしたから、人よりも数倍の勉強を重ね、人の模範となるような生活をしていたことでしょう。
悩みで相談に来る人を励まし、有り余るほどの豊かな宗教の知識を、世のため、人のために生かしていたのかもしれません。
ニコデモは、地位、名誉、財産など、人がうらやむ多くのものを手にしてきました。
天国を目指し、自分の力で、自分を新しいものに変えようと老年に至るまで頑張っていました。
それでもです。ニコデモの心には、自分が天国に入れるという確信が訪れなかった・・・
ニコデモは、自分の努力では新しく生まれ変われなかったんです。
そして、「新しく生まれ変われていないこと」で、天国に入れる確信が持てず、魂の平安からほど遠い、幸福から離れた生活を送らざるを得なかった・・・
これが、ニコデモに潜む最大の問題だったんですね。
もふりんなるほど。自分の努力では天国に入れないんですね。神さまから力をもらって新しく生まれ変わることが大切なんですね。
でも人を新しく生まれ変わらせる神さまの力って、いったい何ですか?
石川それは、聖霊です。5節でイエスさまは、「水と霊とから生まれなければ、神の国にはいることはできない。」と言っていますね。
ここでいう「霊」というのが、「聖霊」を指すわけです。
聖霊というのは、簡単に言えば、私たちの心に住んでくださる神さまです。
つまり、神さまご自身が、私たちの心に働いてくださり、私たちを生まれ変わらせてくださるということなんですね。
もふりん自分の力で、がんばって、新しく生まれ変わろうとするのではないんですね。聖霊が心に働いてくださって、新しく生まれ変わらせてくださるんですね。
石川その通りです。人は、どんなに努力をしても、天国に入ることはできないと聖書は言っています。この世のどんな教育も、訓練も、修行も、天国にふさわしくなるように根本的に人を変えることはできないと・・・
ニコデモは、ユダヤ人の宗教の先生でした。地位と権力があって、人がうらやむほどのたくさんの知識があったことでしょう。
でも、どんなに努力をして自分自身を良いものに変えようとしても、天国に入れるという確信は得られなかった・・・
天国が求める基準にまで自分を高めることはできなかったんですね。
そんなニコデモに対して、イエスさまは、救いの言葉を語られたんです。
「自分で努力するのではない。ただ聖霊のみが人を新しく生まれ変わらせることができる」と・・・
もふりんきっと、ニコデモにとっては、とてもびっくりだったでしょうね!
霊なる神さまが心に働いてくださって、自分を変えてくださるなんて思ってもみなかったかも。
石川そうですよね。まさに奇想天外に聞こえたかもしれませんね。
実は、「新しく生まれ変わる=自分以外の他力に頼ることによって自分が変わっていく」というのは、キリスト教の最大の魅力のひとつといえるでしょう。
それは、自分自身で努力をして・・・頑張って・・・それでも、なかなか思うように改善しない自分自身に絶望した経験のある人には、なおさら大きな希望であり救いであるのではないでしょうか。
同様に、生まれながらにして自分では逃れることができないような過酷な境遇で育ったり、人生の途中で不慮の病気や事故に遭ったりして、人生に耐えがたい苦しさを覚えている人もいるかもしれません。
そんな人にとっても、このイエスさまの言葉は、まさに明るい将来を約束する慰めのひとことだと思うんです。聖霊が、人を新しく生まれ変わらせてくださる・・・
そして、聖霊によって、新しく生まれ変わった人のみが、天国に入ることができる・・・
聖書はこう言っているんです。
もふりん聖霊なる神さまが心に働かれると、人生が大きく変わっていくんですね。人の根本を変えるなんて、聖霊は、とてつもなくすごい力を持っているんですね!
聖霊によってイエス・キリストを救い主と信じることができる
石川牧師、聖霊が新しく生まれ変わらせてくださることはわかりました。
では、聖霊が心に働くと、どのように新しく変わっていくんでしょうか?
石川一番の変化は、イエス・キリストを救い主として信じることができるようになるということです。16節を見てみましょう。
石川ここで、「そのひとり子」という言葉と、「御子(みこ)」という言葉が出てきますね。
これらの言葉は、両方ともイエス・キリストのことです。
神さまは、私たち人間を含む「この世」を愛してくださったがゆえに、イエス・キリストを約2000年前に「この世」に与えてくださったんです。
もふりんイエスさまがこの世に来てくださった日をお祝いするのがクリスマスですよね!
石川ええ、私たちも毎年、クリスマスを祝っていますよね。イエス・キリストがこの世に来られたのは歴史的な事実です。そして、この16節の大切なポイントは「イエス・キリストを信じる者はひとりも滅びない」ということです。
ここで、「信じる」というのは、わかりやすく言うと、「罪からの救い主として信じる」という意味なんです。もふりんは、罪という言葉を聞いたことがありますか?
もふりんなんとなく悪いものだというのはわかるんですけど、うまく言葉で言えないです。どう言ったらいいんでしょう・・・
石川なかなか、言葉で説明するのはむずかしいですよね。ちょっと暗い話になってしまうかもしれませんが、大切なところなのでお付き合いくださいね。
罪とは、ひとことで言えば、神さまと一緒に人生を歩むことをせずに、自分の力で好きなように人生を歩もうとすることを指します。
罪は、いわば、自己中心、あるいは自分勝手という言葉に置き換えることができると思います。
そして、この罪が、ありとあらゆる多くの問題を引き起こします。盗み、あざけり、ねたみ、無視、戦争など・・・枚挙にいとまがありません。
これらは、「自分さえ良ければそれで良い」という自己中心の思いが根源となって引き起こされるんですね。
「神さまなんてどうでもよい、自分さえ良ければよい」という自分勝手な歩みが、これらの問題の根源にあるといえます。
もふりん自分勝手な思いが、罪のおおもとで、いろいろな良くないことを引き起こすんですね・・・
石川しかも、悲しいことに、人は、この罪の束縛から、自分自身の力で逃れることができないと聖書は語っています。罪は私たちの内側に根深くはりめぐらされた木の根のようなものです。
自らの力で罪の束縛から逃れることなど到底できません。
だから、生まれながらの人は、神さまとともに歩む人生ではなく、自分の好き勝手に人生を歩まざるを得ないんです。
その行きつくところは、神さまとの永遠の断絶であり、天国とは程遠い、滅びの道を突き進むことになると聖書は語っています。
もふりんとっても心が暗くなってきました。どうしましょう・・・。
石川牧師、その罪の罰=滅びの道から逃れることはできるんでしょうか・・・?
石川大丈夫です!この罪の問題を解決してくださったのが、まさにイエス・キリストなんですね!なんと、イエス・キリストは、十字架にかかることによって、私たちが受けるべき罪の罰を代わりに受けてくださったんです
だから、イエス・キリストを、自分の罪からの救い主と信じる人は、滅びの道から救い出されて、永遠の命を得ることができるんです。つまり、天国へ行くことが約束されるんです。
もふりんえっ!イエスさまが滅びの道から救ってくださるんですか?
石川そうなんです。ですから安心してくださいね。16節をもう一度見てみましょうか。
3:16 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。
16節の大切なポイントは「イエス・キリストを罪からの救い主として信じる者がひとりも滅びない」ということだと話しましたね。ということは・・・
自分が罪の中を歩む自分勝手な人間だということを認めて、イエス・キリストを罪からの救い主と信じる人は、滅びに至る道から救われて永遠の命が得られる=天国に入れる
ということなんです。
自分の力で歩んできた人から、神さまとともに歩む人へと新しく生まれ変わるんです。
もふりんなるほど!イエスさまを罪からの救い主として信じることで、滅びの道から逃れることができるんですね。
石川ええ、その通りです。そして、この章の最初に話をもどしますが、イエス・キリストを罪からの救い主として信じることができるのは、まさに聖霊の力によってなんですね。
自分の努力によって、ではないんです。
もっと言えば、聖霊が心に働くことによってでしか、イエス・キリストを罪からの救い主として信じることができないと聖書は言っているんですね。
もふりんだからニコデモは、自分でがんばっても、自分が必ず天国に入れると信じられなかったんですね。でもニコデモは、イエスさまと出会うことで、このことを知ることができたんですね。本当によかったです! ところで、聖霊が心に働いているってどうしたらわかるの?
石川人は、イエス・キリストと出会うときに、その人の人生が本当に大きく変わります。
その人の心に聖霊が働いてくださって、イエス・キリストを罪からの救い主として受け入れると、自分勝手に歩んでいた人生から神さまと共に歩む人生へと変わることになりますからね。
それは、180度の転換といっても言い過ぎではありません。
聖書には、イエス・キリストに出会って人生が変えられた人がたくさんいますよ。
もふりんでは、自分の心に聖霊が働いているって、どうやったらわかるんでしょうか?
石川聖霊は、私たちの思いを無理なく誘導してくださいます。
ですから、たとえば、
- 教会に行ってみたいと思う
- 聖書を読んでみたいと思う
- 今、教会に行っていて、聖書のことばに触れている
- 友人から教会に行こうと誘われている
- などなど・・・
というようなことが当てはまる場合は、聖霊が働かれていて、その人が、イエス・キリストを罪からの救い主として信じることができるように導かれていると考えてよいと思います。
なぜなら、先ほどお話ししたように、生まれながらの人間は、罪の束縛があって、自分勝手に好きなように人生を歩まざるをえないため、決して自らの力でイエス・キリストを信じようとする方向に向くことはないからです。
もし、教会に行こうと思っている、聖書に興味があるなど、上記のうち、どれか1つでも当てはまるなら、それは聖霊が働かれている証拠といえるのではないでしょうか。
もふりんなるほど。教会に行ってみたいだとか、聖書の話を聞いてみたいだとかは、聖霊がその人の心に働かれているからこそ、そう思うんですね。
石川ええ、聖霊は、人の思いに働いてくださいますからね。
もっと言えば、この「もふりんと楽しむ聖書探検」を読んでくださっているということ自体が、聖霊が心に働いてくださっている証拠といっても過言ではありません。
そして、そのように聖霊が働いてくださっているなぁと感じる人がすべきことは、そのような聖霊の働きを素直に受け入れることだけなんです。
聖霊が、自分の中の罪に気づかせてくださり、イエス・キリストを罪からの救い主として信じさせてくださる・・・その働きを素直に受け入れることで、新しく生まれ変わり、天国に入ることができるんですね。
教会は、そのような聖霊の働きに寄り添って、人がイエス・キリストを罪からの救い主と信じることができるようサポートする役割を持っています。きっと、その先に「幸福へ至る道」が用意されているはずです。
もふりんいろいろとお話しくださって、本当にどうもありがとうございました!
今度、また、聖書のお話を聞きに来てもいいですか?
石川もちろんです。また、機会を見つけて、一緒に聖書を楽しみましょうね!
「幸福へ至る道」・・・あなたは、どのようにお感じになったでしょうか?
もし、「幸福へ至る道」に興味をお持ちでしたら、ぜひ、長久手キリスト教会に足をお運びになってはいかがでしょうか?
あなたが、幸福へ至る道への一歩を歩みだせるよう、サポートさせていただきます。
